気晴らし散策ツーリング<夕張>
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9月15日(sat)【晴れ】

 両親を近所に移転させるため契約したマンションの売買契約が延期になり、リフォームに関して予定していたことも取り組めずで、青空の週末、悶々とする気分をスッキリしようと走りに出た。

 札幌〜夕張への札夕線・道道3号。変わっていないように思っていても、よく見れば馬追温泉が昔より沿道から奥まっていたり・・・
 少しずつ修正されルートも変わっているが、気にしなければ以前はどうだったなど忘れてしまうもんだね。


 夕張岳が雲に隠れて見えない

 20代の頃は何も考えず走っていたろうか?
 今、この景色を見ながら走ると、
 「幸福の黄色いハンカチ」の場面が目に浮かぶ

 草や土の匂いがするような新作映画が少なくなったな・・・


 走り出してから沿道に見る水田
 そろそろ刈り入れが始まっているが、
 今週始め降った大雨の影響だろう、
 ところどころで、稲穂が倒れた水田を見かける

夕張 日吉地区

 この踏切を渡って、左の坂を登れば、
 「黄色いハンカチ広場」がある
 ・・・劇中では家がビッシリあった夕張本町周辺を走り、
 いよいよラストシーン、この踏切を渡って・・・

 右手にあった「北炭化成工業所」の巨大工場は、もう無い
北炭化成工業所
 明治35年(1902)にコークス工場が建設され、昭和9年(1934)に化成工業所としてリニューアルされる。石炭化学分野における最新施設でもあったが、石炭の時代が幕を下ろし昭和53年には閉鎖。閉鎖後は石炭ガス化試験工場として稼働していた。現在は「ユーパロの湯」があり、その一角には昭和35年(1960)に建設された高さ63mの大煙突だけがシンボルとなって残っている。


 踏切を渡り、坂を登ってさらに左折したら「黄色いハンカチ広場」だが、それよりさらに坂の上へ。
 急な坂を登った先に日吉地区の住宅街がある。

 ▲画像:左>道を真っ直ぐ行った先に、日吉神社がある山、公園には雑草が生い茂り周囲はうっそうとしていた
 ▲画像:右>来た道を振り返って見える風景


 神社より先にも右に道が続いているが、
 この先は道が狭くUターンなどもしにくいから、
 神社の下にバイクを止め、
 道の先、右手に向かって歩いてみる

 ・・・9月中旬だってのに、暑くて汗が吹き出る


▲左:進行方向 右:振り返った風景
 清水沢方向の雨霧山、登ってきた平和などの山の上が見え、かなり山の上になります。
 1976年のWeb航空写真を見ると両サイドには住宅が20軒ほど並んでいたことが確認できるのだが、今は手入れが行き届かない雑草や木々が生い茂って、残る住宅よく見えない。


 山側にも住宅があるが、煙突は折れ曲がって屋根の一部にも大穴が開いていた・・・

 窓ガラスに鍋などが見え、生活感が残っているのだけど、家だけ残して住人は麓に降りてしまい、もう誰も住んではいないのだろうか・・・


 さらに奥へ進むと、人が住まなくなって久しい住宅の屋根が雪などの影響か、倒壊していた。
 草むらに、よく見ると北炭マークが付いた小さなトロッコ?があった。石炭ズリでも運ぶのに使ったモノなのか、本来の用途は分からないがゴミ箱にでもしていたのだろうかね・・・


 今度は坂を降りてゆくと、わずかにある平地に畑があり、作物などがキレイに並んでいた。
 道の先左手には奥まで住宅が残っているが、奥に残る家は廃屋になっていた。


 振り返って山の方を見ると、両側に各1軒、まだ人が暮らしているようだった。
 庭先に駐車していた車にはシルバーマーク・・・お年寄りだけなのかな〜
 シカ避けなのか、しっかりネットで囲った庭の菜園などはキレイに手入れされている。


 坂を登った前方、山の上に見える家
 この家と後方にもう1軒あるのかな?
 ここが日吉地区の一番てっぺん

 雑草だらけだけど、紅葉しそうな庭木もある
 不便なのだろうけど、ココが居場所なんだろな

 日吉神社
 夏に来たから?
 手入れも滞っているのか、
 雑草も伸び放題で、階段が・・・

 布ジャケットの上からでも日差しが熱く、
 腕も暑くなって汗が出てくるよ・・・

 お盆過ぎたら、真夏日続きだ


 雑草をかき分け、細い階段を登ってゆくと、途中に立派な石碑があった。

 風雪に生く  北海道議会議員 石川十四夫書
 北緯四十三度一分四十五秒 東経百四十一度三十八分三十七秒 標高三五二米
 昭和五十五年七月一日建立 夕張市日吉十八番地三区
 ふるさとの地に生きて ・・・以下署名


 1980年・・・もう32年前だ。この地を離れなければならず、ここを想う人々の記念碑なのだろうか。
 建立された意図が何なのかは不明だが、約105名の名前が彫られていた。


 ・・・小さな社は、お供えも無く、倒壊寸前のようで放置気味だった・・・


 現在はひっそりとして木々の匂い溢れる森の中の日吉地区、昔は鉱業所の音と石炭や鉄の匂い、生活の匂いが満ちあふれ、子供達の声が山にこだましていたのだろうね。
 遊ぶ子供も居なくなって、ブランコや鉄棒などが雑草に埋もれた公園・・・そろそろ下界へ降りるとします。

 昭和28年頃、北炭(北海道炭礦汽船株式会社)が新たに開いた平和鉱第二坑に、角田・登川・穂別などから炭鉱従業員が配転され、麓にある炭鉱から標高352mの山の上へと宅地が発展してきた日吉地区。
 それに伴って児童数も増えたため、ここへ登ってくる中腹には学校も開校したようです。1976年のWeb航空写真で学校を上から見ると、まるでブーメランが2つ並んだV型の校舎が、山の中腹にあるのがわかります。(現在は消滅)

 夕張市立若菜東小学校  昭和29年(1954)11月16日開校〜昭和58年(1983)3月31日閉校
 昭和34年(1959)には児童数が最大の1028人となるが、昭和55年(1980)には112人まで減少。若菜小学校と統合して若菜中央小学校となり、若菜小学校跡地に移転した。



▲1976年の航空写真で見ると日吉地区にも家がビッシリ    「国土情報ウェブマッピングシステム」より

 国道へは出ずに、線路脇を通るクルマ1台がやっと通れるくらいの小さな道を通って、本町方面へ向かいます。


 途中、開いたガレージの中に真っ赤な“510ブル”<DATSUN>ブルーバード1600DXがあった!
 SSSかも知れないが、ガレージにズカズカ入るワケにはいかないので中まではよく見えない。
 札ナンバーは一桁!!コンディションは当時のままのような雰囲気だった。
 なんだろな〜・・・この〜今には無い硬派な雰囲気、顔つきが渋いよね。カーデザイナーでもしていたなら、この頃のクルマ達をリデザインして現代に復活させたいモノだ。

 反対側に千代田や鹿の谷の街並みが見える。

鹿の谷東丘町

 通りから山の上へ続く道を登ってみると、ちょっと懐かしいブロック住宅が残っている場所がある。
 こんな山の上ではなかったが、子供の頃住んでいた社宅や友達が住んでた市営住宅に似た雰囲気だ。
 長い間空き家だった住宅を、何年か前に1000円で売り出していた空き家住宅群らしいです。


←昨年、ログハウス注文住宅のトベックスが改築を手がけ、
 建築・・・改築中だった現・鈴木市長のお宅

 ・・・ブロック塀の基礎だけ残ってた状態だけど、
 ログハウスだし、どれだけ再利用できたのだろう・・・
 (※現在はこの状態から想像できないような洒落た家になっている)


 急な坂のてっぺん・・・
 重いバイクで探索するような場所ではないが、
 ついつい上まで登ってきた

 荒れた道、コケたら悲惨・・・


  日吉地区に同じく夕張一帯の谷を見下ろし、かなり山の上に登ってきた感じ・・・
 別荘地ならまだしも、生活は大変だ・・・イヤ違うか?昔は人も多かったし皆働き盛りで若ければ、この環境での生活など当たり前だったのかもしれない。
 何を不便とするのか?何でもかんでも便利な時代、現代は便利過ぎて考えも甘く、人間が貧弱なんだろな。


▲昨年9月11日に旅芸人さんに案内されて通りがかった時は取り壊し中だったアパート
 今は何事も無かったように、何か建つワケでもなく、すっかり更地でした。

鹿ノ谷駅

 駅の裏手、東側の線路脇です(▲左画像:奥に駅舎)
 最盛期には何本もの引き込み線や鉄道関係の建物などがあった場所にはレールも建物も今は無い。
 夕鉄(夕張鉄道)の廃線後はサイクリングロードが造られたが、今は朽ちた道の一部が残るだけ。


 夕鉄の車庫らしき古い建物があったが・・・
 昨年、その古い1棟が取り壊されたようだ

 でっかい変圧器がある電柱
 電柱から延びる電線は無い・・・

夕張本町

 また「幸福の黄色いハンカチ」モードで・・・

 夕張本町周辺も、どんどんスキ間が多くなってる


▲右手に見える手前の家は空き家のようで建物が傾いているが、その下の家は住人がいて危なっかしい。
 市役所周辺の住宅街。朽ちてゆく大きな医院の建物が残っている。
 木造の空き家は、冬を越すごとに崩壊の進行が早まっているようだ・・・


 市役所が見える場所に残る古い住宅が、旅館のような佇まいに見えた。
 春、雪で倒壊した美術館(旧ボーリング場)は崖下の地下部分だけ残っている。


 「幸福の黄色いハンカチ」で勇さんがケンカしたシーンの階段もいつまで持つのか・・・
 夜の歓楽街の通りも、ポツリポツリと空き家などの劣化や崩壊が進んでいる。


 市外から来た観光客がカレーそば&うどんを食べるため、行列が出来ていた「藤の家」が店を閉じてから、この坂道も寂しさが増す風景になってしまっている。


 万字方面へ向かう道道38号から見える「石炭の歴史村」。立て坑はお色直しされて鮮やかに。
 そして沿道には「石炭の歴史村」の施設のひとつ「知られざる世界の動物館(世界のはくせい館)」が残っている。入ったことなど無いし今も動物の“はく製”があるのか知らないが、かつて温泉地によくあった“秘宝館”ブームの頃、コチラも旨い話に乗せられ巨額の資金を投じて造られた博物館?らしく、世界という割りにシカやキツネなどどこでも見られる野生動物のはく製があったようだ。
 雨漏りなど建物の損傷がひどく3年ほど前から閉鎖されているが、画像に見える屋根の端も雪などで破損しているし、立派な建物も放置していたら美術館のように倒壊するのは時間の問題だろう。

福住 最後の木造住宅

  その館の反対側に、福住の炭鉱住宅へと続いていた道が雑草に覆われ残っている。
 ジムニーなら登っていっただろうけど、バイクなので歩いて登ってみる。
 少し登ると平地になり、以前は住宅があった場所に桜が植えられてはいるが、ほとんど雑草パラダイス。


 さらに登っていくと、木造の建物が見えてきた。「福住集会所」の建物だったようです。
 映画「幸福の黄色いハンカチ」の場面でも、車窓に福住の風景が映り、その中にチラッと見ることができる。斜面に並ぶ住宅の中にあって、銭湯などもあったようです。
 メロンの受粉に活躍するハチを管理するのに、今も建物が使われているのだろうか?建物の手前が囲われていて、養蜂の巣箱が置かれていて、近づくことはできなかった。

万字峠

 昨年くらいに道路補修が終わり、走りやすくなった万字峠を流す。交通量も少ないし、つづら折りのカーブが続くワインディングを走って、退屈していたバイクが生き返る。


 峠を下り万字から岩見沢方面へ向かう途中に見える水田も、所々で稲穂が倒れていた。
 コンバインでは刈り取れない倒れた稲の行方はどうなるのだろう?
 今年は豊作だったというが、大雨によるダメージも少なくないように思える。

岩見沢

万字峠を降りて平野部に出ると、進行方向の空を見ると、重い雲が上がってきた・・・
 豪雨で浸水した地区を通った。すぐ近くに大きな川があるワケでもなく、住宅街の目の前には田畑が広がる風景。9月12日の明け方、この辺で降り続いた豪雨は約260ミリだったらしい。まだ道路には泥の跡があり浸水の爪痕が残っていた。

 後を振り返ると晴れ間が見えるが、札幌方向は空が低い雲で真っ黒・・・
 雨具なしで布ジャケットにジーンズ・・・カメラが濡れないように気にしつつ、ウラルートを札幌に向け南下するが、途中ポツポツと雨に降られた。
 それから土砂降りゾーンに入りかけたが、寸前でルートを変えてグルッと雨雲を避け、ずぶ濡れにならずに国道12号で帰ってきた・・・

 真夏日が続いた9月でも、気まぐれな空模様はもう秋です。
 でも最近の天候は、季節問わず狭いエリアで激変するし、天気予報もアテにならない。空を見るのが一番だ。


オマケ
 その夜
 夜10時過ぎ、静かな住宅街で
 ドガッ!・・・キュルキュルキュル〜・・・
 ??映画も見てないのに、なんの音だ?
 窓から外を見るとクルマが1台、変な動き・・・
 事故ったようだけど、他に人も車もナシ

 9月に珍しく暑い夜だったし、みな窓も開けている
 近所の人達も何事かと外に出てきた
 外に出てみるとバンパーが外れ左フロント車軸がねじ曲がったミニバンと、ぼけ〜っとした運転手。近所の人達が声を掛けたりするが、なんか様子がおかしい・・・
 住宅街の交差点、左折して電柱にコンニチハ・・・曲がりすぎて電柱に当たったようだが、スマホをガン見運転??それにしてもモタクタとスマホでどこかに連絡?な運転手・・・お向かいさんが警察に連絡し、待つこと数分、お隣の奥さんと井戸端会議で「何か変な人だ、なんか変!最近よく聞くクスリ?」と言ってると、ようやくミニパト登場。
 近所の人が家に戻ってからも、しばらく警官が運転手と話をしていて、飲酒チェックなどしていた・・・
 1時間後くらいにやっとレッカー車が来て事故車が運ばれ、後日も警官が聞き込みに近所を回っていた。飲酒運転だったらしい。暑い夜、遅くまで外で遊んでる子供も少なくないので人身事故が無くて良かった。

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