9月2日(sun)【晴れ】 |
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金欠なのに、早くCB125でロングツーリングしてみたくて、ガマンできず・・・
晴れわたっていた札幌市内を出たら、千歳方面、南東から雲がみるみる広がってきた・・・ 夕張方面はあきらめ、道道46号で江別方面へ 江別から南幌に入り、迫り来る雲から逃げるように 国道337号で石狩川を越えた 江別を越えて当別に入った辺りの道端で空の動きを伺う。 レインウエアなんて持たないから、雨雲だったらアウトでツーリングも中止しようと思ったが、南東より上がってきた雲も散り散りに、青空が戻ってきそうだった。 周囲は水田 しばし稲穂を観察しながら休憩 曇り空も分散したようなので、 北上してみることにした 新篠津村に入り、道道81号で石狩川を越え、ウラルートをつないで美唄方面へ。 60km/h、6000回転・・・2つのメーターはピッタリ同じ方向を指している。CB125には無理なく丁度イイ巡航ペース。 <YAMAHA>FZ400 最終型?らしきマシンが 前を走っていた。 徐々に距離が開く・・・ ちょっと頑張って右45度に針を傾けてみる・・・ が、追いつけるワケもなく・・・ 美唄の裏口から市内に入り、国道12号線沿いにある、 よく寄っているアンテナショップ「Pipa」で 久々の「とりめし」おにぎりを買う 焼き鳥はガマンして、 ひとり、おにぎり一個・・・ やっぱり、旨ぇ〜!! 南美唄町仲町 トコトコと走る小型バイクでやりたかったこと・・・ 懐かしい住宅地の風景、生活がある炭鉱住宅が多く残っている、南美唄を回ってみます。 当時の姿のまま板張りの壁もあれば、改装してサイディング壁になった住宅など様々だけど、基本は同じ「三井美唄炭鉱」の社宅だった家が密集する地域です。 当然、最盛期は石炭ですから、灯油のホームタンクなど無かった風景だったのだろうね。 こちらは、1976年の航空写真で確認しても、前庭もあって家の周りがゆったりしていて、職員クラスなどの社宅ではないかと思われます。 南美唄町山の手 人が住んでいない建物なのか、玄関入口の屋根部分が崩れている建物。昨年は大丈夫だった気がするので、今期の豪雪で倒壊したのかな・・・ 青トタン屋根にタール色の板張り、パラボラアンテナだけが今を感じさせる。 仲町と南町より少し登ったところにある山の手、 ちょっと高台にあるからランクが高かったのかな〜 1976年の航空写真で見ると20棟はあった家も、 残っているのは半分以下だった コンクリート電柱が無ければ、 タイムスリップしたような風景だ 南美唄町南町 背後にある森の向こうが山の手になる。 青空の下でコントラストが美しく変わらず残っている建物ですが、現代の住宅に比べたら冬の暮らしは、どれほど大変なのだろう。 赤い三角屋根の家など、洋風ログハウスのお店のようにも見え、四角い家が多い今見ると新鮮だ。日本独特の木造住宅の美しさが青空に映えるな〜。 赤い屋根の小さな家には 理容店にある“青赤クルクル”が見える 現代では一家に一台が当たり前でも、 自家用車を所有できなかった時代にできた住宅街、 道幅も狭く、小さな区域に小さな家が密集している でもなぜだか、ホッとする景色です 南美唄駅があった通りを走る 周囲に空き地があるが・・・ 資料も持たなかったので、 南美唄駅だった場所は分からなかった・・・ ←画像は駅前商店街の一角になるようだ マンモス校だった三井美唄小学校は 駅の向かいにあったようで、 今はコミュニティセンターになっている ・・・画像は、また次に来たときの課題だな 南美唄町下 南美唄町下・・・現在は上に駐屯地があるが、炭鉱の城下町のように広がっていったのだろうか? 現代ではそう広くない区域だけど、1条〜小中学校がある18条まで細かく区分けされている。 多くの暮らしも残る反面、空き家も多く、倒壊している建物もあり、少し悲しい場面も・・・ 子供の頃住んでいた公務員住宅より何倍も広い区域に、社宅が並んでいるような風景です。 未舗装の一本道、やっぱり小型バイクでトコトコ移動するのが一番だけど、暑い・・・ この社宅の感じこそが、自分の世代かな・・・ とても懐かしい風景です 人口が集中する都市部の公務員住宅などはアパート形式等に代わってしまい、このような風景は、ほとんど見かけなくなった 子供の頃に住んでいた住宅地は、市営住宅も公務員住宅もこんな感じが多く、アパートはまだ目新しいものだったな ●三井美唄互楽館 1955年(昭和30年)建築 北海道内の産炭地域に現存する最大の旧映画館。三井美唄互楽館は北海道における封切館として位置付けられ、最新の映画が鑑賞できたという。2,000人を収容した大規模な映画館で、東京の劇団・芸能人なども多数招かれたという。 石炭の最盛期だった昭和30年代、炭鉱がある地域には多くの人が集まって街が大きくなり、大規模な会館や映画館も建てられた。 この建物も活気と勢いがあった炭鉱の文化を現在に伝える貴重な施設だが、現在は民間企業の倉庫として使用されているようです。 ●三井美唄鉱業所跡地の碑 南美唄の商店街が並ぶメインストリート「中央通り」沿いを奥に進むと石碑がある。いつも芦別・滝川方面からの帰りルートで通る南美唄、帰路を急ぐので石碑前を素通りだった。 沿革 一、昭和三年八月三井鉱山は光珠炭鉱の経営の一切を引受け 三井美唄鉱業所とした 一、昭和四年六月通洞坑口を開坑 一、昭和二十六年六月新美唄鉱業所と統合 新美唄を二坑と呼称 一、昭和二十九年四月二坑を閉鎖一坑に統合 一、昭和三十八年七月二十七日閉山 一、昭和三十八年十二月十九日通洞坑口を閉鎖 三井美唄鉱業所三十五年の歴史を閉ず 昭和三十九年三月建立 美唄市長 菅 秀基 三井美唄炭鉱 1928年(昭和3年)〜1964(昭和39年) 昭和3年(1928)、三井財閥が日石光珠炭鉱を買収し「三井美唄炭鉱」となる。南美唄より奥の山にある炭鉱から、美唄駅へ直結する専用鉄道(美唄支線)で石炭輸送を行う。 昭和14年(1939)には従業員数2600人、出炭量は80万トン。規模の割りには、三菱美唄炭鉱と比べて採炭量は劣っていた。昭和38年(1963)閉山。 現在、美唄では火力発電の燃料とされる石炭の「露天掘り」が進められている・・・ それにしても暑くてダレます・・・ 最盛期は南美唄商店街で大きな百貨店だった?商店でノンアルコールビールを1本。 商店向かいの日陰で休憩。少し離れた美容室前では、ご主人がハエ叩きを持ってパンパンやっているのを、同じポーズと動きでジッと見ている犬が2匹。遊んで欲しいようだ。 草刈り機を背負って通り沿いの雑草を刈る父さん、たまに車が通るくらいで人の姿はほとんどない。 汗ダラダラの日曜の静かな午後、夏休みに里帰りした田舎(親父の故郷)を思い出す・・・ 美唄のヤマを離れ、水田の広がるウラルートを北上。羊が放牧されていた。もうすぐ黄金色だな。 歌志内〜赤平 いつも帰路で走る道道115〜114号を逆回りに走る。歌志内も静かな日曜の午後。 赤平で休憩。近くにあった遮断機、遮断機が下りる音が徐々にズレて変調になっていた。 芦別〜桂沢〜に抜ける峠ルートも考えたが却下され、楽なルートへ・・・ 砂川 砂川オアシスパークの大きな溜め池。今日はジェットスキーが数台、水上で遊んでいる。 風があっても暑い・・・暑さのせいか、CB125のライドポジションのせいか、ちょっと疲れた。 高回転域でニーグリップするとヒザから振動が伝わるCB125。細身のタンクにストッとまたがり、ニーグリップせず走ると、どうしてもハンドルに加重がかかり、手首が疲れてくる。後の人はステップから足に高回転の振動がビリビリ激しくなるようだ。 水田の向こうに火力発電が見えるウラルートを南下し、いつもの快速ルートで札幌を目指す。 ガソリンもリザーブタンクに切り替わり、そろそろガス欠になりそうなので、三笠あたりからウラルートをあきらめ、国道12号を走る。札幌より価格は高めかな・・・ 岩見沢市内を出たあたりで給油。14Lタンクに13.3リットル・・・ギリギリだった。 まだ整備中だったりで正確ではないが、あんまり燃費良くないかも・・・回し過ぎ?? 盆過ぎて残暑でも9月、日暮れが早くなったな〜・・・ 栗沢〜江別、日暮れとともに流れのペースも速まる。CB125もMAXでガムバってみる・・・ ピンクナンバーでタンデムしてるバイクが、みるみる迫ると気持ち悪ぃ〜だろなw 江別手前で今日も河川敷・・・お気に入りの休憩ポイント ちょっと遅かったかな・・・ あと半月もすれば、そろそろ寒くなり 体も冷え切っている時間だが、 まだ布ジャケットでも耐えられる 今年は川に波がない夕景を撮れるかな〜 陽が落ちるまで、黄昏れてしまいます 江別に入って、後方に変なクルマ・・・ やたら低く小さい・・・ しかも“ピンクのかぶり物” 公道仕様のゴーカートだ! ↓こんなのがあるらしい・・・ X-Kart50(約38万円) リアルマリオカート@札幌 同一人物か・・・注目されたい人向きだな チビラーゴの方がライドポジションが楽なせいか、CB125で初の200キロ越えロングツーリングは、ちょっと疲れた。体が慣れないせいか、暑さのせいか・・・ いよいよになったらロングツーリングも走れなくはないが、時間に余裕も必要になるし、今は近距離をトコトコと走る散策ツーリング専用が一番かな。 |
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